明の四書学は成立から展開へ発展し、経書化することで明の学問世界の代名詞になった。徳川日本が明の四書学を受け入れることにした。それは日本が同時代の東アジアの儒学文化圏に属すことを意味しているようになった。
しかし、徳川日本は四書学を受け入れる中、様ざまな有様を呈している。朱子学に忠実に祖述する朱子学者が存する一方、明の四書学を対抗する安齋学派がある。そればかりか、脱四書学を目的とする伊藤仁斎、五経学まで創立された徂徠学もあった。また、和刻本の出版と教育の発展に従って、四書学をはじめとする儒学はその後の日本では道徳教育の学問になりつつであった。