『樹影』は1970年8月から1972年4月まで書かれ、21回「群像」に連載して、その年の野間文芸賞を受けた。これは荒廃の中に放置されていた長崎の街を舞台に、被爆後遺症に悩む長崎の画家と華僑女性の悲恋を描いた物語である。女主人公の柳慶子は、いつしか妻子ある麻田晋と不倫関係となる。慶子は終戦の翌日、たまたま爆心地を横切っただけで残留放射能を浴び被爆しているのだった。また、原爆が投下された直後、救護のために浦上へ行った麻田は、爆心地を通り、残留放射能を浴びて被爆した。そして戦後十数年の間、画壇で活躍するが、最後に『色のない絵』を描き、昭和35年、原爆後遺症の肝臓癌でこの世を去る。佐多は『樹影』に、慶子に自分政治事件に対する考えを託している。