日本近世初期,丰臣和德川两个统一政权先后确立。新兴武家政治的亲族政策独具特色,天下人秀吉以广泛的氏姓授予将武家全体纳入其模拟亲族,并将这一统辖车略与关白政治模式相结合构成丰臣政权的统治基础。德川政权则回归将军幕府政治模式,氏姓授予不再具有建构亲族功能的同时,基于血缘的德川亲族的范围和秩序更加复杂多样。不同于拥有牢固宗法传统的中国古代王朝,日本近世武家政权缺乏类似的传统范式,亲族问题就不可避免地依据实用主义政治逻辑进行处理,这也正是近世初期日本武家政治文化的突出特征。
日本近世初期において、豊臣と徳川二つの統一政権が相次いで成立し、新たな武家政治には独特な親族政策もそれぞれ設置されたのである。「天下人」秀吉は、積極的な氏姓授与を通して武家全体の擬制親族化という統制策を打ち出した上、それを関白政治モードとあわせながら豊臣政権の統治基盤を作り上げた。一方、徳川新政権は関白から将軍·幕府政治モードへ戻ったため、氏姓授与の親族編成機能が失われた同時、血縁関係に基づく徳川親族の範囲や内部秩序もさらなる複雑·多様な方向に導かれていった。堅固な宗法制伝統をもつ中国古代王朝と異なり、日本近世武家政権には同じような影響がなかったので、親族関係など問題も実用主義の政治論理によって処置せざるを得なくなった。それも、近世初期日本武家政治分化の一つ本質的な特徴であるとえいよう。